Starlings Of The Slipstream

今日もどうもありがとう ほんとにいい日だった

SNDの超越性と砂原良徳の奏でる「ノイズ」についての論考

10年ぶりのまりんの新作に、後ろ頭を鉄球のようなミラーボールで小突かれるかのごとく、まるで放たれた矢から受けた反動を一心に受けたかのごとく、「わぉ」とラブリービッチ先輩のように感嘆の言葉を漏らしたので、電波文章垂れ流そうと決意。
かねてからその相関性に注目していたSNDとの関係性を軸に書きだそうと筆を進めた結果、ただのSNDマンセーになり、(さらに途中で面倒臭くなり)大風呂敷掲げたあげく終着点そこってどうなのよ?って結果になってしまったがまぁいいやと適当にpost

久しぶりに更新して中の人が違えてしまったのではないかと錯覚するけど、気にしない。

以下、連々と。


Mat SteelとMark Fellによって結成されたユニット「SND」は2009年にリリースしたAtavismという作品で、確かにミニマリズムの頂点を極めた。均一な、単純化されたフレーズを反復するという、前提の時点で画一性を有しているミニマルミュージックにおいて、彼らが取った差異化の手段とは、圧倒的な音の強度を追求することであった。

硬質性に特化したビートは、かつて、(あくまでダンスフロアに焦点が当てられていた頃の)ハードミニマルが持っていたグルーヴとは異なり、フロアの持つ肉体性を断絶し、強弱の間に揺らぐ音像により、ミニマルミュージックの持つ本質であるズレを最大化する。それはかつて、マイルス・デイヴィスが革新的であり続けたように、また、リカルド・ヴィラロボスが少年少女の合唱を差し込むことで、反復における退行を巧妙に回避していたように、彼らが新たな"答え"を提示したと言える。ハンマービートを導入したノイ!と思想と同じくしながら、方法論としては寧ろ真逆に、明確で緻密な音のコンポジションによって、彼らは電子音楽の絶対深度を描き出した。

その是非は別として、ここ数年のうちにアンダーグラウンドシーンの話題は、一部のサイケデリック・ムーヴメントを除き、(広義の)ミニマルとドローンに移行してしまった。そこで注目されたのは一音に集約される音作りのセンスであり、一歩間違えるとスカムとも捉えかねられない、抽象化された状況下における"天才"を過大に評価し続けてきた。これについては、9.11以降の停滞感を引きずってしまっている事は明らかであろう。それはまるで焼け野が原から一つの宝石を探すような試みであって、それまでの音楽にあった価値観をリセットする事を望んでいるようにも受け取ることができる。

結局のところ、これらは音響芸術の枠からはみ出す事は出来ず、輪郭を曖昧にすることで、次第にそれらの評価軸さえも曖昧にしてしまう。(極めてドラスティックに)集約すると、ゼロ年代後半は、差異化の困難さを孕んだ音楽を追い求めることにより、アンビエントな世界の現状を明確化にしたタームであったと換言できよう。そうしたアンビエントな状況下で、SNDはミニマルミュージックに対して、更に強固なアーキテクチャを導入するという、言わば力技を用いることで、より高い次元にその存在を押し上げた。

ここで断言しておくと、砂原良徳とSNDの感覚は共通している。その音楽性に限定することなく、共感覚を持っているという言い方が望ましい。その一方で、各々の最新作であるLiminalとAtavismには重要な相違点として「ノイズ」の存在がある。では、まりんはそこに含まれている「ノイズ」で、一体何を我々に訴えかけてきているのであろうか。

Tender LoveからAtavismまで、SNDはその7年という間に、大きく時計を進めすぎた。そうした徹底的な音の排除により、パッケージされた音は、2009年を遥かに超越し、同時代性を持たないマテリアル・ミュージックに成り得ることができた。これは10年代が終わった後に振り返ってみても全く退行が見られない、極めて強度が高い音楽であるということを示唆している。そのため、彼らの音楽はミニマルミュージックの手法から逸脱すること無く、その超越性を獲得したと結論づけられる。

一方で、まりんの音楽は、確かにこの2011年に鳴っている。レイドバックされ、高層化されたソフトシンセや、以前と比べると過剰なまでに挿入されたノイズも含めて、これは2001年に出された傑作、LOVEBEATから着実に10年の月日を経過した音である。そして、以前のまりんが持っていたメロウネス、そのメロディーラインの美しさは、ここでは影を潜め、Atavismによって進められた電子音楽の時計を元に戻すかのごとく、敢えてそこに情報量(=ノイズ)を詰め込み、力強いビートを中心として、新たに音楽を奏でている。

映像技術において、キャメラがオブジェクトを捉えるという動作を経るだけで、意図しないもの、すなわち「ノイズ」が写りこんでしまうわけであるが、録音技術においてはディジタル技術の発展に伴い、恣意的にそれを回避する事が可能となっていった。ゆえに、ノイズを表面化しない、言わば無意識状態として扱うことで「ノイズ」の顕在化から逃れることを、ある一定数の音響音楽家は行ってきたわけであるが、かのような歴史からも、(ある種それは当然のごとく)ノイズは音楽の要素として絶対的ではないことは、我々にとって共通認識であるように思う。しかし、Ovalが名作「94diskont」でそれを絶対的存在であると音楽中で昇華したように、まりんは確かに現実と対峙しているという事実を、明確にその「ノイズ」をもって体現している。90年代のまりんとは違った、非常にコンシャスな音楽であると僕は思っている。

言葉を持たないことで、聞き手によって多様な解釈をもたらす事を可能としている電子音楽であるが、Liminalは、一様の受け取られ方をするのではないかと感じている。Liminalに確かに存在している「怒り」の側面は、決して焦点化されておらず、まるで赤子が駄々をこねるような、四方八方へと自分の定まらない感情を開放していくような、そんな印象を抱かせる。今作でまりんは「あえて抵抗している」ように思える。
個人の思想を全体の思想と飛躍させるのはあまりに短略的であり、論理性に欠けると思うが、野田努が「2011年のサウンドトラックだ」と評したように、この混沌とした世界における、定まらない怒りこそが、我々の持った共通の感情であるという事は、もはや断言せざるを得ないのではないかと、私はLiminalを聴き、(あのまりんがこのような音楽を世に出した事実に驚きながら)ふと、思ってしまうのである。


Atavism

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liminal(初回限定盤)(DVD付)

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ジャケットが相反しているのも何とも面白いなと思ったり。