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Daft Punk - Random Access Memories

ダフト・パンクの8年振りの新作である「ランダム・アクセス・メモリーズ」(なんと示唆的なタイトルだろう!)は彼らの大きな転換作として世界中で受け入れられ、はたまた批判にさらされているようだ。確かに表面的には彼らの音楽の代表格であったエレクトロ・サウンドは後退し、70~80年代のファンク/ディスコへと回帰したダウンテンポの楽曲が占める構成のために、ダフト・パンクに遠い未来のイメージを重ねている人には退屈に映ってしまうのは想像に難く無い。

本作のレトロ・スペクティヴなアプローチを昨今のエレクトロ・ミュージックへのアンチテーゼとして語る事は正当な切り口ではあるが、それが全てではないように思える。確かに現在のエレクトロ・シーンにおいて、ダフト・パンクが"ワン・モア・タイム"で掲げたメッセージは、エレクトロ・ダンス・ミュージック(EDM)というジャンルにカテゴライズされた相次ぐ後継者によりその本質を失ってしまった。もはやEDMは、音楽史における親を持たない、資本に回収された音楽になってしまったとさえ感じる。一方で、その惨状を見かねるかのように、彼らが舞台から姿を消したと邪推するのは、彼らに期待しすぎた人々の嫉妬深い意見のようにも思える。単に過去に葬り去ろうとするのであれば、彼らはマスクを脱ぎ、ボコーダーをゴミ箱に詰めることも出来たはずだ。しかし、彼らはまるでこれまでの輝かしいキャリアを放棄するかのように大胆に趣を変えて、一方でその音楽の根幹にあるフィーリングを決して失う事なく、我々の前に戻ってきたわけである。そもそも、彼らがこの作品において、"ダンス"を放棄していると言えるだろうか?

本作の主題をより正確に述べるとすれば、これは歴史を断絶したテクノロジーのみで作られた音楽の氾濫への警鐘である。つまるところ、形骸化した"ダンス"の、そしてポップ・ミュージックの意味を取り戻すための作品だ。本作で彼らは、大胆にジョルジオ・モロダーの半生を引用し、ナイル・ロジャースのカッティングを用い、ファレル・ウィリアムスを再び歌に向きあわせ、ジュリアン・カサブランカスのシャウト、ではなくファルセットを取り入れている。これまでマスクを被り、声をボコーダーにより変換し、匿名性を全面に押し出して来た彼らは、これらの"異世界の住人"と出会い、共生し、セッションを楽しんでいるようにも見える。それもサンプリングではなく本人を起用し、楽曲ごとのミュージシャンをクレジットするといった極めて周到なやり形で。

これらのコラボレーションにより、彼らは時空を越えて出会ったポップ・ミュージックの原風景を描き出す事に成功した。勿論それは、我々の記憶の一場面でもある。先行シングルの"ゲット・ラッキー"を単純に過去の模倣と切り捨てるのは簡単であるが、単に時間軸の問題ではなく、これが同様に70年代のダンスフロアで鳴り響く事は決してない。この曲におけるダフト・パンクは単なる黒子ではないし、ロジャーの鳴らしたそれでもない。自らの出自、根幹をなす過去の偉大なるポップ・ミュージックとそこに宿るソウルを抽象化して再構築する更新の試みは本作では後退しているが、その灯りは決して消えていない。

長い過去の旅を経た彼らは、最後の曲"コンタクト"で我々が良く知っている、エレクトロ・サウンドをいよいよ響かせるわけだが、ここにも80年代前半のオーストラリアのサウンドが引用されている。かくして彼らは「親」の存在を明らかにし、それらが地繋ぎである事を証明してみせる。

これは強調しておかなければならないが、お世辞にもこの作品に革新性や最新のサウンドが詰まっているとは言えない。しかしダフト・パンクは、他に誰も出来なかった方法で、"ダンス"の意味を取り戻し、この収められた素晴らしい13曲の中で、過去への最大限の敬意を払い、ポップ・ミュージックを継続させていく意志を表現してみせた。"ドント・ストップ・ザ・ダンシング"、そう、これはそのための音楽である。

Random Access Memories

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