Starlings Of The Slipstream

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帰宅部活動記録

幾度となく繰り返されてきた、ありふれた誤解を防ぐためにも、何よりも先んじて、これを高みから特権的に見下ろし、いま一度悪趣味な戯れを始めようとしているわけではないことを、まず断言せねばなるまい。そのように留保した上でようやく、帰宅部活動記録に向き合うということは、一つの作品を視聴することであると同時に、成熟とはなにかということを考えることでもあるということを高らかに宣言することが出来る。

一般的に言えば、成熟の対極には未熟が位置するであろうが、未熟であることと、成熟していないなにかであり続けることの間には、決定的な差異が存在する。ここで今新たに、未熟ではなく、成熟していないなにかであり続けることの困難さを、もはや指摘するまでもない。我々は、少なくともこの作品を視聴することで、成熟していないなにかであることとは一体どのようなことであるか、という問いを既に目にしているはずだからである。帰宅部活動記録は、多くの作品がほかでもなく一つの作品である以上なかば当然のように自らを成熟に至る直線に無防備に身を置くのに対して、大胆にもニヒリスティックな笑顔をこちらに向けながら、成熟から徹底的に距離を取り続けることを試みる。我々の目に映るその姿は、その思惑が何であるにせよ、いかにも非道徳的であり、幼児的であり、つまるところ、杜撰である。しかし、その杜撰さこそが、成熟から距離を取り続けるための数少ない方法であることを、”彼女ら”は身を持って証明している。そしてその杜撰さは、幾度と無く我々の手を止め、一つの答えを出すことを促すであろうが、その答えを保留し続けた結果として導かれたはずの到着地は、未熟とはほど遠いどこかであることに気付く。かくいう奇妙な視聴体験は、元より意識されたものか、それが意識されないあまりに過剰さを持ち得たのかは定かではないが、しかし、我々はその成熟していないなにかに触れたことに対する確かな充足を得ていることは、もはや言うまでもないであろう。

帰宅部活動記録は、成熟していないなにかで有り続けることのある種の権利を、その信念を貫き通すことによって、幸運にも持ち得ることが出来たのである。だからこそ、我々はその表層にある杜撰さを嘆くのではなく、ひとまずは拍手をもってこれを迎えねばならないはずなのである。